赤土の塊が、乾いた風にさらされ崩れてゆく。
かろうじて枯れる事を免れた川沿いの街道を、その男は歩いていた。
土ぼこりが舞い、男は目をおおう。しかし足は休めなかった。
背中にしょった木箱は1メートル四方はあるそれなりに大きなものだったが、男が担ぐと小さく見えた。
人けのない街道に一人いるため目立たないが、男は身の丈2メートルをはるかに超す大男だった。腕は普通の大人が方脇に抱えられないほど太く、たくましかった。
男の名はサンダー・ホークといった。
彼はひと月に1回、渓谷の家から3時間かけて、歩いて街に下りてくる。観光客相手に、木彫りの土産物を売るためである。
彼と彼の父は、林業を生業とするかたわら、こうした副業もこなしていた。彼の父は木彫りにかけては並ならぬ腕を持っていたが、高齢の上ここ数年はめっきり病に伏し、体力の衰えを訴えていた。
ふもとの街には馬車や自動車があったが、彼はそういった「乗り物」を嫌い、自分の足で移動した。彼にしてみれば、3時間やそこらの移動は何でもない。その日のうちに行って戻れる距離なら彼の庭だった。
ホークは、それでもさすがに疲れた様子で、立ち止まり、道端の巨石にもたれかけ、水筒の水を飲んだ。この辺りはもう渓谷にかなり近づいている。
原生林の茂る小高い丘を右手に、急な岩肌を仰ぎ見る。慣れた足取りで登ってゆく。
頂上近くまで昇り切ると、険しい峡谷の下をのぞき込むことができる。彼は、ちらと谷の奥を見やった。そこに彼と、彼の父親の住む家が見える。急な岩山を下りることはできないので、回り道をして家に着くまでにはここからさらに1時間はかかる。
陽は西にかなり傾いていたが、日没までには帰れるだろうとなんとはなしに考えていた。
岩の影が長く伸び始めた下りの街道で多少足をはやめた。
その時──ホークは、突き刺すような気配を感じ、立ち止まった。何かがいる。
「──狼か?」
ホークは頭の中でつぶやいた。しかし、狼のそれとは違う。何かこう、寒けを覚えるような、不吉な感じだ。
しばらく辺りに目くばせし、注意して再び歩を進めようとした瞬間、それは目前に立っていた。
「!!」
人間の男だった。しかし、普通の人間とはとても思えなかった。まるっきり生気がないのだ。それでいて、肌を刺す気配は辺りに充満している。風景そのものがゆがんで見えるようだ。
その男は漆黒のマントを体に巻きつけていた。目深に被った帽子の奥に、不気味に光る双眸が覗いた。
「──アロイオの息子か?」
男が問いかけてきた。凍てつくような寒々しい声だ。
「そうだが……あんたは、誰だ?」
「この私を、覚えていないか。フム……」
男は口元をゆがませ、笑うしぐさをした。
「誰だ?何故、父を知ってる?」
ホークは緊張していた。張りつめた空気が、彼をひどく警戒させていた。本能的に男を「敵」と認識した。彼は、いつでも太い腕で一撃を食らわせられるよう力を込めた。
「おまえの父は、かつては強い男だった……だが今はどうだ?残念と言う他はない」
「?……何を言ってる?父に何をした!?」
「ふ……またいずれ、おまえとも会うことになる。その時は、もう少し楽しめそうだな……」
男はそう言うと、すっと岩間に跳んだ。気配は消え、男の姿もそれきりだった。
ホークはしばらく自失していたが、父の異変を直感的に悟り、我が家に向かって駆けた。
「今の男……」
走りながら男のことを思い出していた。謎の男。年齢も定かでなかった。そして、頭に直接響いてくるような、冷え冷えとした口調。あのような人間がいるのか。
丸太でくみ上げられたホークの家が近づいてきた。出がけと変わらぬ庭先の様子。だが、戸口は開けられていた。
「父よ!」
叫びながら駆け込むと、はたして彼の父は、戸口のすぐ右手につっぷしていた。
ホークは急いで抱え起こす。父親の体に息があるのを確かめ、最悪の事態は免れたと安堵した。が、にわかに病状が悪化した様子で、大きく肩で息をしている。
「む……おまえか……」
齢を越え病の床にあるとはいえ、並の若者の3〜4人相手に後れを取る父ではない。立派に蓄えられた髭と鋭い眼光は、威風堂々として、猛獣をも退かせる。その父をこのような目に遭わせたのは、もはやあのマントの男に相違なかった。
「父よ、早くこれを!」
ホークは今しがた買ってきたばかりの錠剤を取り出した。発作の時に飲む薬である。しかし、父はホークを見つめたまま、首を横に振った。
ホークは、全てを悟り、抱える腕に力を込めた。ここで取り乱すのは、父が望むまい。
父アロイオ・ホークは、静かに話し始めた。
「……おまえは、あの男に会ったのか……?」
うなずくホーク。
「おの男は……かつて、我々の一族を根絶やしにした、『シャドルー』という殺戮集団を率いていた男だ。もう30年も前の話だ……」
ホークは驚いた。自分にここでの生活以前の過去があったなど、考えたこともなかった。
「我々は、誇りあるサンダーフット族の民だった。
ある夜、我々の村に、『シャドルー』と名のる集団が押し入った。村には豊富な鉱山鉱脈があり、それを狙う輩は多かった。やつらもその仲間だと思っていたのだ。
しかし……やつらの目的は違った。
やつらは、村の老人や子供たちを次々と手に掛け……火を、放った……」
父は話し続けた。その騒乱の中、怒りに猛る若者たちを、たった一人で屠ったマントの男。
ホークは愕然となった。さっきの男のことではないか。
「ヤツは……憎しみのパワーを吸い取り、我がものとしていたのだ。
青白い光をまとったヤツの前に、仲間はみな倒された……。
幼いお前をかばい、火の手から逃れる私に、あの男は言った。
『私が憎いだろう……存分に憎むがいい。その力が強いほど楽しめる。お前は、もっと強くなれるはずだ。憎め。俺を倒しにこい』
炎の奥にかすむヤツの声を聞いた時、私とおまえは、崩れ落ちる炎の壁に巻き込まれ、滝壺に転落した……」
父が気づいた時には、親子二人で、見知らぬ地に流されていたと言う。
「私は考えた。ヤツは、私が復讐する事を望んでいる。より強い『憎しみ』を欲しがっていたのだ。仲間を奪われ、聖地を焼かれた恨みはつきない。が……それではヤツの思うがままだ。それならば、と……」
父の選択は報復ではなかった。
幼いわが子と、新たな聖地をつくること。奪われた仲間を弔い、その無念と憤りを、誇りある一族の末裔としてふさわしい方法で晴らす事だった。
「憎しみが生む黒い力は、やがて身を滅ぼす。少なくともおまえには、そのような道を選んで欲しくなかった。だからすべてを隠し通してきた。息子よ……だまし続けた父を許してほしい。そして、おそらくあの男は言っただろう、『次はお前だ』と……。ヤツの力の前にはおまえの豪腕もかなわない。決して憎むな。恨みを抱くな。ヤツはそれを望んでいるのだ」
父アロイオの目には、もうホークは見えていなかった。残されたすべての力を右腕に込め、ホークの手に重ねる。
「誇り高き我が一族の末裔よ……。その血を、憎しみで汚してはならん。己の正義を貫くのだ」
ホークはただまっすぐに、父の目を見据えていた。
「我が聖地か……30年捜し続け、ついぞ取り戻す事はかなわなかったな……」
アロイオは、遠くを想う優しい表情で、こときれた。
何かが熱く燃えるのを、ホークは感じていた。
父の髪から、髪飾りの赤羽を一本引き抜き、自分の髪に挿した。
「……父よ、あなたを聖地に連れていく。私と共に……」
固い決意を胸に、ホークは立ち上がった。
血がたぎっている。無限の力が沸き上がるのを感じ、彼はひとしきり、吠えた。その声は谷を渡り、世界の果てまでも届くようであった。